サークル結成記念
ゲーム作りのために、サークルを正式に立ち上げました。
正式メンバーはまだ2人(まいた&キャラデザのみ)。
果たして本当にゲームを完成させる所まで持っていけるのか、全くもって未知数ですが、全力を尽くしたいです。
ちなみにサークル名は「球聖教会」。
サークルのキャッチコピー
「汝、この丸きものに角たるものありきか?貫くべき角たるものありきか?」
ちなみに第一作目のタイトルは「神サマの誘惑」(予定)です。
さあ、賽は投げられた!

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果たして本当にゲームを完成させる所まで持っていけるのか、全くもって未知数ですが、全力を尽くしたいです。
ちなみにサークル名は「球聖教会」。
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「汝、この丸きものに角たるものありきか?貫くべき角たるものありきか?」
ちなみに第一作目のタイトルは「神サマの誘惑」(予定)です。
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theme : ひとりごとのようなもの
genre : 日記
聖マンゴー教会

本日の入手品。カオスですな。

なぜにマンゴー?
それは、私はマンゴーで哲学しなければならないからです。
マンゴーは神の食物。マンゴーは救世主。
マンゴーで世界を幸せにするのです。
ひゃっほう、自分で言ってて訳わかんないぜ!
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genre : 日記
今日のつぶやき30
自分で「正しくない」と思った苦は、受け入れる必要ないんです。
でも、「正しい」と思った苦は、自ら進んで受け入れよう!
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genre : 日記
ドライブ
今日は友人とドライブをしてきました。
最初に目的地に定めたのは、せっかく紅葉の季節なんだし「もみじ寺」として有名な、犬山の寂光院。
さっそく向かってみます・・・が、目的地に近づくと、逆方向が凄い車の列。
嫌な予感通り、いざ目的地に到着しても駐車場が全く空いておらず、結局なにもせずに引き返すことに。渋滞の列に突っ込みにいっただけでした。

しかたないので渋滞の列から撮影、日本ライン。あまりに身近すぎて今まで気付かなかったけど、それなりの絶景が広がっています。
で、新たな目的地として向かった先は・・・。

こちら。さあ、何城でしょう?

ヒントというか、正解そのもの、言わずと知れた「ひこにゃん」。彦根城です。
彦根城周辺を一通り見学。お土産物屋では、ひこにゃんコーナーは人だかりがあるのに、それ以外は見向きもされていませんでした。
カップルや子連れも多く、ひこにゃん人気はまだまだ健在のようです。

二季咲桜。今が見所みたい。こんな桜があるなんて、初めて知りました。
車内では友人と様々な会話をしていましたが、作成中のゲームのネタになる話題もたっぷり出てきて、収穫はバッチリ。今日も、幸せな日でした!

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最初に目的地に定めたのは、せっかく紅葉の季節なんだし「もみじ寺」として有名な、犬山の寂光院。
さっそく向かってみます・・・が、目的地に近づくと、逆方向が凄い車の列。
嫌な予感通り、いざ目的地に到着しても駐車場が全く空いておらず、結局なにもせずに引き返すことに。渋滞の列に突っ込みにいっただけでした。

しかたないので渋滞の列から撮影、日本ライン。あまりに身近すぎて今まで気付かなかったけど、それなりの絶景が広がっています。
で、新たな目的地として向かった先は・・・。

こちら。さあ、何城でしょう?

ヒントというか、正解そのもの、言わずと知れた「ひこにゃん」。彦根城です。
彦根城周辺を一通り見学。お土産物屋では、ひこにゃんコーナーは人だかりがあるのに、それ以外は見向きもされていませんでした。
カップルや子連れも多く、ひこにゃん人気はまだまだ健在のようです。

二季咲桜。今が見所みたい。こんな桜があるなんて、初めて知りました。
車内では友人と様々な会話をしていましたが、作成中のゲームのネタになる話題もたっぷり出てきて、収穫はバッチリ。今日も、幸せな日でした!
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genre : 日記
日本と韓国
韓国と日本は、なぜ仲が悪いのでしょうか。
私の理論を辿っていくと、その結論はただ一つです。
「神さまが、そうさせているから」。
日本と韓国に、こんな状況でも仲良くなれるかどうか、試練を与えているのです。
全ての誤解は、勘違いから始まっています。しかし勘違いするのも当然、神さまは「勘違いさせるような」情報しか、お互いに与えないのですから。
誤解を解くには、相手を真っ向から否定してしまうのではなく、こちらからでも、相手にもそれなりの事情があるのだ、と「理解」してあげ、“良いところ”を認めてあげることから始めなければなりません。そうすれば、相手も自然に丸くなっていく可能性を持たせられます。否定すればその可能性は全くなくなります。
具体例をあげるとすれば、日韓ワールドカップにおける韓国の4強入りを、「審判のおかげ」と真っ先に非難するなど、もってのほか。結果を出したのですから、そこは認めてあげないといけません。
しかし、何でもホイホイ相手の言いなりになっていてもいけません。非難するべきときは、非難しなければなりませんが、それは基本的に「国」の仕事。
「嫌韓」などという草の根活動を民間でやったところで、なんの解決にもならないのです。
本当の「草の根活動」はまず、相手を認め、褒めてあげるところから始まるのです。
いつか、誤解が解け、お互いが幸せになれるような日がくることを、まいたは祈ります。

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私の理論を辿っていくと、その結論はただ一つです。
「神さまが、そうさせているから」。
日本と韓国に、こんな状況でも仲良くなれるかどうか、試練を与えているのです。
全ての誤解は、勘違いから始まっています。しかし勘違いするのも当然、神さまは「勘違いさせるような」情報しか、お互いに与えないのですから。
誤解を解くには、相手を真っ向から否定してしまうのではなく、こちらからでも、相手にもそれなりの事情があるのだ、と「理解」してあげ、“良いところ”を認めてあげることから始めなければなりません。そうすれば、相手も自然に丸くなっていく可能性を持たせられます。否定すればその可能性は全くなくなります。
具体例をあげるとすれば、日韓ワールドカップにおける韓国の4強入りを、「審判のおかげ」と真っ先に非難するなど、もってのほか。結果を出したのですから、そこは認めてあげないといけません。
しかし、何でもホイホイ相手の言いなりになっていてもいけません。非難するべきときは、非難しなければなりませんが、それは基本的に「国」の仕事。
「嫌韓」などという草の根活動を民間でやったところで、なんの解決にもならないのです。
本当の「草の根活動」はまず、相手を認め、褒めてあげるところから始まるのです。
いつか、誤解が解け、お互いが幸せになれるような日がくることを、まいたは祈ります。
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思い出のゲーム列伝第221回「巨人のドシン1」
思い出のゲーム列伝第221回。今回は名前は聞いたことがあったり、ゲームキューブ版はプレイしたことがあっても、本家本元をプレイしたことがある人はほとんどいないであろうこの作品です。
巨人のドシン1(64DD)

だいぶ前に書きましたが、かつてのまいたは妊娠(任天堂信者)でした。
新ハードの購入においてプレステではなくロクヨンを選んだ結果、もはや後に引けなくなった、という面もありましたが、やはり全体的にプレステよりロクヨンの方がまいたの琴線に触れる作品が多かったことも確かだと思います。
「なぜみんなロクヨンの凄さを理解してくれないのだろう」と、いつかは必ずロクヨンが天下を獲ってくれる、と信じて突き進んでいたあの時代。
まいたのゲームに対する情熱が最も燃え盛っていた時期でもあったかもしれません。
そんな中、「ロクヨン起死回生の一発」として期待されつづけていた64DD。しかし一向に発売の気配はなく、ようやく実態が見えつつあった頃にはすでにプレステの天下は揺ぎ無い物となっており、DD用として開発されていたソフトも大半がカセットに移行し、さらにはゲームキューブに関する情報もチラホラと出回るようになり、64DDがすでに「時代遅れ」であることは誰の目にも明らかになっていました。
まいたももう「これに過剰に期待するのは無理であろう」とは理解していましたが、信者の性か、登場と同時にランドネット会員に登録(初期の64DDでは店頭販売はなく、ランドネットという64DDを利用した通信サービスに登録することによって端末を「リース」するという販売形態だった)。しかし結局サービスは1年で終了、会員に至っては2万人にも満たず、起死回生どころか止めの一発となり、任天堂の黒歴史の一つとして刻まれることになってしまいました。・・・わかっちゃいたけどね。
本来64DD用として開発されていた「裏ゼルダ」や「マザー3」は後に別ハードで正式に登場し、一部の開発者によって「絶対面白いから期待していてください」と評されていた「ウォール街」などは結局登場することのないまま終了。
しかしそんな中にあって、完全オリジナル作品の中では唯一、当初の発表通りに64DDでの登場に至った作品がありました。それがこの「巨人のドシン1」だったのです。
「巨人のドシン」は「アクアノートの休日」や「太陽のしっぽ」の飯田和敏氏によって、その2作に連する作品として開発されました。
プレイヤーに特に何か目的が与えられるわけでもなく、箱庭世界の中を自由気ままに動き回るというスタンスのこれらの作品群。いわば水族館や動物園にて、水槽や檻の中に入って自由に鑑賞していく、という感じです。
「巨人のドシン」の舞台となるのはバルド島という南国の島。プレイヤーは巨人を操り、島に暮す小人たちとのスキンシップを中心に、気ままに島を動き回っていくことになります。
巨人は土地を自由に上げ下げしたり、住人や木々、建物などを抱きかかえて運んだりすることができます。しかし作品内で「これをしろ」と明確な指示が与えられることは一切なく、日の出とともに出現した巨人は、日没とともに消滅し、また翌日、新たな巨人が誕生し、変わらない日々が繰り返されていくことになります。
住人の喜ぶ行為をすることによって、巨人は住人達から「愛」を得ることができ、この「愛」をある程度集めると、巨人は一回り大きく成長します。
「ちょっと・・・おおきくなったね・・・」「かなり・・・おおきくなったね・・・」などど、大きくなる度に緒川たまきさんによる色っぽいボイスが流れるのは何を狙ったものなのかがイマイチつかめませんが、まあ、雰囲気に合ってはいます。
しかし大きくなりすぎると、うっかり住民を踏み潰してしまったり、建物を破壊してしまうことにも繋がっていくのですが、このゲームにおいてはそんなことは「だからどーした」で済ませられる問題です。
また、巨人は「愛」ではなく、「憎しみ」を集めることによっても巨大化できます。住人を踏み潰したり、建物を壊したり、荒地や水中に住人を放置したりすることによって「憎しみ」は集まっていき、ある程度集めるとやはり一回り大きくなります。
巨人は通常は「ラブ巨人」と呼ばれ、体の色は黄色ですが、いつでも「ヘイト巨人」に変身することができます。「ヘイト巨人」では体の色が赤色になり、その能力も「破壊」に特化したものへと変化します。
ある程度住民との交流が進めば、「ラブ巨人」や「ヘイト巨人」を目にするだけで愛や憎しみが集まっていきます。
「島」が舞台とはなっていますが、巨人は自由自在に土地の上げ下げができるので、地形は自由に作り変えられます。かなり時間はかかりますがすべてを水没させたり、マップをすべて陸地にしてしまうことも可能。
変化させた陸地はちゃんと保存されるので、電源を切ってもそのままですが、住人達は電源を切っている間にも「繁殖」していくので、再開すると前回終了時より若干人口が増えているのが普通です。
このようにして住人と巨人との触れ合いは進んでいくわけですが、「何の目的も与えられない」というこのゲームは、当然「気に入った!」という人と「全然ダメ・・・」という人に分かれると思います。
まいたは熱中・・・とまでは行かずとも、気分転換としてそれなりにプレイしていました。適当に地形を作り変えたり、どこまで巨大化できるのかに挑戦したり、マターリ気分に浸ったり、時には破壊神と化してみたり。
自分なりに目的を持ってプレイするのも、本当に何の目的ももたずにただブラブラとのんびりするのも自由なこのゲーム。ある意味、人生の縮図かもしれませんね。


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巨人のドシン1(64DD)

だいぶ前に書きましたが、かつてのまいたは妊娠(任天堂信者)でした。
新ハードの購入においてプレステではなくロクヨンを選んだ結果、もはや後に引けなくなった、という面もありましたが、やはり全体的にプレステよりロクヨンの方がまいたの琴線に触れる作品が多かったことも確かだと思います。
「なぜみんなロクヨンの凄さを理解してくれないのだろう」と、いつかは必ずロクヨンが天下を獲ってくれる、と信じて突き進んでいたあの時代。
まいたのゲームに対する情熱が最も燃え盛っていた時期でもあったかもしれません。
そんな中、「ロクヨン起死回生の一発」として期待されつづけていた64DD。しかし一向に発売の気配はなく、ようやく実態が見えつつあった頃にはすでにプレステの天下は揺ぎ無い物となっており、DD用として開発されていたソフトも大半がカセットに移行し、さらにはゲームキューブに関する情報もチラホラと出回るようになり、64DDがすでに「時代遅れ」であることは誰の目にも明らかになっていました。
まいたももう「これに過剰に期待するのは無理であろう」とは理解していましたが、信者の性か、登場と同時にランドネット会員に登録(初期の64DDでは店頭販売はなく、ランドネットという64DDを利用した通信サービスに登録することによって端末を「リース」するという販売形態だった)。しかし結局サービスは1年で終了、会員に至っては2万人にも満たず、起死回生どころか止めの一発となり、任天堂の黒歴史の一つとして刻まれることになってしまいました。・・・わかっちゃいたけどね。
本来64DD用として開発されていた「裏ゼルダ」や「マザー3」は後に別ハードで正式に登場し、一部の開発者によって「絶対面白いから期待していてください」と評されていた「ウォール街」などは結局登場することのないまま終了。
しかしそんな中にあって、完全オリジナル作品の中では唯一、当初の発表通りに64DDでの登場に至った作品がありました。それがこの「巨人のドシン1」だったのです。
「巨人のドシン」は「アクアノートの休日」や「太陽のしっぽ」の飯田和敏氏によって、その2作に連する作品として開発されました。
プレイヤーに特に何か目的が与えられるわけでもなく、箱庭世界の中を自由気ままに動き回るというスタンスのこれらの作品群。いわば水族館や動物園にて、水槽や檻の中に入って自由に鑑賞していく、という感じです。
「巨人のドシン」の舞台となるのはバルド島という南国の島。プレイヤーは巨人を操り、島に暮す小人たちとのスキンシップを中心に、気ままに島を動き回っていくことになります。
巨人は土地を自由に上げ下げしたり、住人や木々、建物などを抱きかかえて運んだりすることができます。しかし作品内で「これをしろ」と明確な指示が与えられることは一切なく、日の出とともに出現した巨人は、日没とともに消滅し、また翌日、新たな巨人が誕生し、変わらない日々が繰り返されていくことになります。
住人の喜ぶ行為をすることによって、巨人は住人達から「愛」を得ることができ、この「愛」をある程度集めると、巨人は一回り大きく成長します。
「ちょっと・・・おおきくなったね・・・」「かなり・・・おおきくなったね・・・」などど、大きくなる度に緒川たまきさんによる色っぽいボイスが流れるのは何を狙ったものなのかがイマイチつかめませんが、まあ、雰囲気に合ってはいます。
しかし大きくなりすぎると、うっかり住民を踏み潰してしまったり、建物を破壊してしまうことにも繋がっていくのですが、このゲームにおいてはそんなことは「だからどーした」で済ませられる問題です。
また、巨人は「愛」ではなく、「憎しみ」を集めることによっても巨大化できます。住人を踏み潰したり、建物を壊したり、荒地や水中に住人を放置したりすることによって「憎しみ」は集まっていき、ある程度集めるとやはり一回り大きくなります。
巨人は通常は「ラブ巨人」と呼ばれ、体の色は黄色ですが、いつでも「ヘイト巨人」に変身することができます。「ヘイト巨人」では体の色が赤色になり、その能力も「破壊」に特化したものへと変化します。
ある程度住民との交流が進めば、「ラブ巨人」や「ヘイト巨人」を目にするだけで愛や憎しみが集まっていきます。
「島」が舞台とはなっていますが、巨人は自由自在に土地の上げ下げができるので、地形は自由に作り変えられます。かなり時間はかかりますがすべてを水没させたり、マップをすべて陸地にしてしまうことも可能。
変化させた陸地はちゃんと保存されるので、電源を切ってもそのままですが、住人達は電源を切っている間にも「繁殖」していくので、再開すると前回終了時より若干人口が増えているのが普通です。
このようにして住人と巨人との触れ合いは進んでいくわけですが、「何の目的も与えられない」というこのゲームは、当然「気に入った!」という人と「全然ダメ・・・」という人に分かれると思います。
まいたは熱中・・・とまでは行かずとも、気分転換としてそれなりにプレイしていました。適当に地形を作り変えたり、どこまで巨大化できるのかに挑戦したり、マターリ気分に浸ったり、時には破壊神と化してみたり。
自分なりに目的を持ってプレイするのも、本当に何の目的ももたずにただブラブラとのんびりするのも自由なこのゲーム。ある意味、人生の縮図かもしれませんね。

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証明
「証明」とはなんなのか。
今回の妄想では、コイツをテーマに扱ってみることにしましょう。
さて、“証明”。まずは辞書を引いてみましょう。
「その事柄が論理的に正しいこと(事実に合っていること)を明らかにすること」とあります。
事実に合っていることを明らかにする。簡単なように見えて、非常に難しいです。そもそも“事実”とはなんなのか。まいたはそこにすら疑問符を抱いているので、余計にややこしいのです。
ぶっちゃけまいたにとって、「神の実在」というのは、紛れもない事実です。だって、ホントに私は神さまに会ったことがありますし、実際に会ってしまった以上、認めざるを得ません。神さまとは今でも良い友達です。
悪魔の証明、でしたっけ?
ないことを証明することはできないけど、あることを証明することは簡単。悪魔がいると証明するには、悪魔を連れてこればよい。
私の元へは神さまがやってきてしまいましたから、私にとって神の実在は「証明された」ことなのです。
では、ここで話をちょっと変えてみます。「ない」を証明することは、本当にできないのでしょうか?
数学では「よって、〜というのはありえない」という証明がなされることがよくあります。だったら、「ない」の証明は不可能ではないのではないか。
・・・しかし、数学の証明には決定的な前提が必要です。
「1+1は2である」という前提条件があるのです。
これが否定されてしまえば、全てはひっくり返ってしまいます。
みなさんも考えてみましょう。1+1は、本当に“2”なのですか?
直角は全て等しい。それは、本当ですか?
私が何を言いたいのか、よくわからないと言う人のほうが多いと思いますが、つまりは以前紹介した“目”の理論です。“目”で見たものは、本当に正しいのですか?
結論として、やはり「ない」の証明は不可能だと思います。それと共に私は「ある」の証明も万人に通用する“自明”としてはまた、不可能であると考えます。「悪魔を連れてこれば、悪魔の存在は証明できる」と言いますが、それが「確かに悪魔である」ことを確認できるのは、自分自身しかいないのです。全ては、認識の問題なのです。
・・・今回の妄想はちょっとわかりにくかったですかね。
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